卵巣を「その場所のまま」読み解く──空間トランスクリプトミクス最前線

卵巣は、卵子と顆粒膜細胞、莢膜細胞、間質細胞、免疫細胞が緻密に配置され、その位置関係そのものが機能に直結する臓器です。卵胞の発育や排卵、黄体化は、これらの細胞が互いの位置を保ちながら相互作用することで進みます。ところが、これまで広く使われてきた単一細胞RNAシーケンシング(scRNA-seq)は、組織を個々の細胞にばらばらに分離してから遺伝子発現を調べる手法であるため、細胞同士の空間的な位置関係という情報が失われてしまうという弱点を抱えていました。

この弱点を補う技術として近年急速に普及しているのが、組織を壊さずに遺伝子発現を計測できる「空間トランスクリプトミクス」です。どの遺伝子がどこで発現しているかを組織の構造を保ったまま読み取れるため、卵胞の中で顆粒膜細胞と莢膜細胞がどのように役割分担しているか、あるいは腫瘍組織の中で免疫細胞がどこに集まっているかといった、位置に紐づいた生物学的な問いに答えられるようになります。

一方で、この分野には複数の商用プラットフォームが存在し、解像度や網羅性、コストがそれぞれ異なります。どの技術をどのような問いに使うべきかを整理した情報は、まだ十分に体系化されていません。こうした背景のもと、Reproduction誌に、卵巣を対象とした空間トランスクリプトミクス研究40件を横断的にレビューした総説論文が掲載されました(doi:10.1093/reprod/xaag079)。

方法──40件の卵巣研究を、技術別・テーマ別に整理した

本総説は、2025年11月から2026年1月にかけて文献を検索し、卵巣組織を対象に空間トランスクリプトミクスを応用した研究40件を対象としました。対象研究は、卵巣の細胞地図(アトラス)構築、卵巣老化、卵胞発育・排卵、卵巣がんという4つのテーマに大別され、それぞれで用いられた技術プラットフォーム、対象種、併用された他のオミクス手法(単一細胞RNA-seq、プロテオミクス、ATAC-seqなど)が整理されています。

あわせて、卵巣研究で標準的に用いられる7つの主要プラットフォーム──配列決定型のVisium、Visium HD、Stereo-seq、GeoMxと、画像型のXenium、MERSCOPE、CosMx──の技術的特徴が比較され、解像度、タンパク質同時検出の可否、既製の遺伝子パネルの範囲、コストがまとめられています。

「配列決定型」と「画像型」、卵巣研究では使い分けが必要

空間トランスクリプトミクスの技術は、大きく2つの方式に分類されます。ひとつは、組織上に配置されたバーコード付きの捕捉スポットでRNAを回収する「配列決定型」(Visium、Visium HD、Stereo-seq、GeoMxなど)で、もうひとつは、蛍光標識したプローブを用いて個々の細胞内の転写産物を直接観察する「画像型」(Xenium、MERSCOPE、CosMxなど)です。

配列決定型は、あらかじめ標的遺伝子を絞り込む必要がなく、全トランスクリプトーム(約22,000遺伝子)を網羅的に解析できる利点がありますが、解像度には限界があります。標準的なVisiumの捕捉スポットは直径55マイクロメートルで、100マイクロメートル間隔に配置されているため、ひとつのスポットに顆粒膜細胞と莢膜細胞など複数の細胞由来のRNAが混在してしまうことが少なくありません。この課題に対応して開発されたVisium HDは、捕捉スポットを2マイクロメートルまで微細化し、単一細胞に近い解像度を実現していますが、それでもスポットと細胞の境界が完全には一致せず、どの細胞由来の信号かを推定する「デコンボリューション」という計算処理が依然として必要とされています。もっとも高い解像度を持つのはStereo-seqで、220ナノメートルというサブセルラーに迫る精度を持ち、130×130ミリメートルという広い撮影範囲を確保できるため、ヒト卵巣の複数切片を1枚のスライドに収めることも可能とされています。

対照的に、画像型のプラットフォームは、単一細胞、さらには細胞内(サブセルラー)レベルの解像度で転写産物を直接可視化できる一方、あらかじめ選定した遺伝子パネル(数百〜数千遺伝子)しか計測できないという制約があります。本総説では、卵巣の主要細胞マーカー遺伝子200種類のリストと、各社の既製パネルとの重なりを比較した結果も示されており、CosMxのヒト用パネルで50遺伝子、MERSCOPEのマウス脳用パネルで37遺伝子、Xeniumの5kパネルで78遺伝子にとどまったとされています。既製のパネルはもともと脳や乳がんなど他臓器を想定して設計されているため、卵巣研究に用いる際には独自パネルの設計がほぼ必須になるという点が、この総説の指摘するひとつの重要な限界です。

卵巣という組織特有の計算上の壁

卵巣を対象とした空間トランスクリプトミクス解析には、他臓器にはない技術的な難しさもあります。卵母細胞(卵子のもとになる細胞)は、マウスで約80マイクロメートル、ヒトでは120マイクロメートルを超えるほど大きく、ひとつの卵母細胞の転写シグナルが複数の捕捉スポットにまたがって希釈されてしまうことがあります。また、卵巣表層上皮細胞や免疫細胞のように、組織内にまばらにしか存在しない細胞種は、画像型プラットフォームであっても正確な検出が難しいとされています。

顆粒膜細胞の層が密に重なる構造や、莢膜細胞の細長い形態も、細胞と細胞の境界を機械学習モデルで正確に切り分ける「セグメンテーション」を難しくする要因です。膜染色が不明瞭になりやすい脂質に富む卵巣組織では、既製の自動処理パイプラインがうまく機能しないことがあり、研究者が染色チャンネルの重みを手動で調整するなど、個別のチューニングが必要になる場面も報告されています。

卵巣老化を「場所ごと」に読み解く

空間トランスクリプトミクスがとりわけ力を発揮してきた領域のひとつが、卵巣の老化研究です。ヒト卵巣を対象としたある研究では、Visiumと単一細胞RNA-seqを組み合わせ、3種類の顆粒膜細胞と5種類の莢膜・間質細胞を同定し、FOXP1という転写因子が卵巣の細胞老化を制御する上流因子である可能性を報告しています。ケルセチンの投与によってFOXP1の活性化が誘導され、卵巣老化が遅延することも示されており、FOXP1の発現低下が老化の一因である可能性が示唆されています。

マウスを対象とした別の研究では、卵胞内の顆粒膜細胞を内側・外側に分けて解析したところ、加齢に伴ってアクチビン・フォリスタチンシグナルやTGF-βシグナル、アポトーシス、細胞間の情報伝達(ギャップジャンクション)に関わる経路が選択的に影響を受けることが明らかになりました。さらに別の研究では、21匹のマウス卵巣、653個の卵胞、234個の黄体を対象にSlide-seqという手法で解析し、卵胞内で内側の顆粒膜細胞が増殖を、外側の細胞がホルモン産生を担うという「分業」が、加齢とともに徐々に失われていくことが確認されています。カニクイザルを対象とした研究でも、老化に伴う変化は組織全体で一様に生じるのではなく、炎症や血管新生、細胞老化に関わる遺伝子群が特定の領域に集中する「ホットスポット」として現れることが報告されています。

排卵という「数時間の出来事」を、位置情報つきで追う

排卵は、卵胞という限られた空間の中で数時間のうちに転写プログラムが劇的に変化する現象であり、空間情報を伴う解析がとりわけ有用な対象とされています。マウスを対象としたある研究では、Curio Seekerという手法を用いて排卵前後の複数時点を撮影し、卵母細胞を取り囲む内側の顆粒膜細胞と外側の顆粒膜細胞とで、遺伝子発現パターンが明確に異なることを示しました。また、黄体形成ホルモン(hCG)投与から6時間後に間質・間葉系細胞が一過性に増殖する現象も、空間情報を伴う解析によって初めて捉えられています。

より高解像度のMERFISHという画像型技術を用いた別の研究では、顆粒膜細胞、卵丘細胞、間質細胞、莢膜細胞、黄体細胞、免疫細胞のそれぞれについて、排卵の早期と後期で異なる転写状態が確認され、既知のマーカー遺伝子に加えて、これまで報告のなかった細胞種特異的な遺伝子群も同定されています。卵丘細胞については、排卵初期には神経系に関連する遺伝子群が、後期にはコレステロール代謝やステロイド産生に関わる遺伝子群が特徴的に発現するという、直感に反する異質性も見出されました。

卵巣がんでは、腫瘍内の「場所」が予後を左右する

卵巣がんは、この総説がレビューした40件の研究のうち半数以上を占める、もっとも研究が進んでいる領域です。とりわけ高異型度漿液性卵巣がん(HGSOC)では、遺伝的な不均一性が腫瘍内の間質・免疫構造と密接に結びついていることが、複数の研究で示されています。あるVisiumを用いた研究では、HGSOCが単純な多クローン性腫瘍ではなく、コピー数異常のパターンが異なる複数の亜クローン領域が組織内で空間的に分かれて存在することが確認されました。

間質の性質も予後と関連しています。POSTN、CD36、COL1A1を発現する間質領域は、生存期間の短い患者の腫瘍に特異的に濃縮しており、長期生存者の腫瘍ではこうした領域が乏しいことが報告されています。免疫細胞の分布についても、MHCクラスII分子を発現するがん細胞がCD4陽性・CD8陽性のT細胞や抗原提示細胞と共局在する領域が確認され、がん細胞自身が局所的な免疫活性化に関与しうる可能性が示されています。再発の有無と、制御性T細胞(Treg)ががん細胞にどれだけ近接しているかとの関連を報告した研究もあり、遺伝子発現だけでなく細胞同士の空間的な位置関係そのものが、予後と結びついていることが繰り返し示されています。

日本の生殖医療・基礎研究にとっての意味

日本では、空間トランスクリプトミクスはまだ主に基礎研究の領域で用いられている技術であり、臨床応用は緒に就いたばかりです。ただし、卵巣がんの亜クローン構造や間質・免疫環境の可視化は、既存の病理診断だけでは捉えきれない予後情報を提供しうるものであり、今後、病理検体を用いた研究基盤が整備されるにつれて、婦人科腫瘍の診断・治療方針の検討に役立つ可能性があります。また、卵巣老化や卵胞発育のメカニズム解明は、不妊治療における年齢関連の卵巣機能低下の理解にもつながる基礎知見です。

一方で、この総説が指摘するように、現時点で公開されているヒト卵巣のデータの多くはがん組織に由来しており、年代を通じた健常なヒト卵巣組織の参照データは乏しいままです。日本の研究機関がこうした健常組織のデータ整備に貢献できれば、国際的なデータベースの空白を埋めることにもつながります。

総説としての強みと限界

本総説の強みは、40件という規模の研究を、卵巣という単一臓器に絞って横断的に整理した点にあります。技術プラットフォームの特徴と、卵巣特有の計算上の課題(セグメンテーション、デコンボリューション、バッチ補正)、そして老化・排卵・がんという生物学的なテーマを同じ枠組みの中で結びつけて論じている点は、個別の原著論文からは得にくい視点です。

一方で、限界もあります。第一に、これは個々の実験データを新たに生成した原著研究ではなく既存文献を整理した総説であるため、示されている知見の質は元論文それぞれの実験デザインに依存します。第二に、この総説自身が指摘する通り、ヒトを対象とした健常卵巣組織のデータはきわめて限られており、マウスなど動物モデルで得られた知見をそのままヒトに外挿できるとは限りません。実際、LGR5という遺伝子はマウスでは初期の顆粒膜細胞集団のマーカーである一方、ヒトでは初期の生殖細胞に限定して発現するなど、種間で調節プログラムが異なる例も報告されています。第三に、卵巣は月経周期や個体差による変動が大きい組織であり、バッチ補正や個体間差の処理には依然として単一細胞解析由来の手法が援用されている段階で、卵巣に特化した補正手法の確立は今後の課題とされています。

おわりに

空間トランスクリプトミクスは、組織を壊さずに遺伝子発現の位置情報を読み取ることで、卵巣という構造的に複雑な臓器の理解を大きく前進させつつあります。今回整理された40件の研究は、老化に伴う細胞間コミュニケーションの変化、排卵という短時間の現象における卵胞内の役割分担、卵巣がんにおける腫瘍内不均一性と予後の関連など、いずれも組織構造を保ったままでなければ見えてこなかった知見を提供しています。同時に、単一のプラットフォームがすべての研究課題に万能というわけではなく、解像度と網羅性のトレードオフを踏まえた技術選択、そして単一細胞解析やタンパク質解析との組み合わせが、今後さらに重要になっていくと位置づけられています。

参考文献

1. Huang R, Goods BA. Spatial Transcriptomics in Ovarian Biology: Technologies, Computational Challenges, and Biological Insights. Reproduction 2026 (advance article). doi:10.1093/reprod/xaag079.

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